小説らしきものと。

  • 原稿用紙五枚で、「階段」と云うテーマをやるから何か書いてみろと云われて、書いてみた。
  • 題名は、「ニールス・ボーアの扉の蹄鉄」とした。
  • 宝塚歌劇とは何の関係もないが、ずっと宝塚に住んでいる友達がいて、名前を保南と云う。みなみ、と読む。
  • 保南君が今暮らしている屋敷は、戦時中に莫大な富を築いた彼の祖父が建てたものだ。とても広い家で、半世紀以上の時を経ているが、その印象は、ひどく落ち着きがない。保南君のおじいさんは晩年、宗教にのめり込んで財産の殆どを使い果たしてしまい、だから保南君は宗教と云うやつが大嫌いなのだが、金がなくなってからもずっと、おじいさんは唯一の道楽をやめなかった。屋敷のあちこちを増築し、改築するのだ。
  • それはもう、ひたすらな思いつきと、闇雲な実行によるものだったから、建築のセオリーだとか建築様式の統一などと云ったものは一顧だにされず、建てては潰し、潰しては建ての繰り返し。その所為で保南君の家には、使ったことのない座敷牢があり、庭には、些か防空壕じみた、核シェルタと称するものさえ備え付けられている。
  • 「しかし、核シェルタは使ったことがある。子供の頃、猫の仔を拾ってきて、こっそり育てた。今いるコイツはその猫の子孫だよ。」と云って、保南君は膝の上にぺったりと延びている黒猫の背中の丸みを、掌でなぞってゆくようにして撫でた。
  • 猫の頸には、赤と青の縞柄のハギレか何かで作ったらしい首輪がつけられていて、金色の小さな鈴も附いている。「へぇ、」と、保南君に云った。「首輪つけたんだ。」
  • 「いや、帰ってきたら首輪がついてたんだよ。」
  • 保南君は猫を溺愛していて、この黒猫も生まれてからずっと、屋敷のなかだけで飼い続けている。外に出たときの病気や事故、怪我を心配してのことだから、彼が、猫が外に出て行く、なんて云うことは、どういうことか判らないが、何か、よっぽどのことに違いなかった。
  • 「前の廊下を出てずっと奥まで行ったところ、北の角に階段があるでしょ。どうもね、あの上に昇って何かすると、コイツ、どっかへ行っちゃうんだよ。気づいたのは、ようやく、おとついなんだけれど、前から何度も出てたのかも。」
  • 「穴が開いてるんなら、早く大工呼んで、直したらいいじゃない。」
  • 「何処も痛んでないんだよ。すっ、と、抜けちゃうんだよ。」
  • すっと抜ける、と云われても、よく判らなかった。保南君の家には二階に上がる階段が八本もあるのだが、彼の云う北の角の階段と云うのはそれとは別で、七段まで上がったところで、壁面にぶち当たって終わってしまう代物だった。一階と二階を繋ぐ役割を些かも果たし得ていないそいつを、そもそも階段と呼んでよいのか、判らないけれども。
  • 「何処を探してもいないんだよ。鰹節の袋をかさかささせても出てこない。これは大変だとうろうろしていたら、いきなり壁の向こうからぽっと出てきて、そのまま階段の上にストン、と。吃驚したよ。首輪もついてるし。」
  • それから保南君は一日猫に貼り付いていて、だらだらと長い廊下の端にある、階段もどきの上に昇った猫が、ぴょいと壁の向こうに飛び込んで、あっと云う間に掻き消えたのをみたのだと云う。猫は保南君の膝の上で腹をみせて、ぐるぐると喉を鳴らしている。
  • 数日後の朝早く、保南君から電話があった。「南京陥落って、昭和何年だった?」
  • 真夜中、眩しいなと思って、眠っていた保南君は目を開けたらしい。すると、障子を挟んだ廊下が、煌々としていたのだった。ひとつひとつに「奉祝」や「南京陥落」と大書した、火を入れた提灯の列が、途絶えることなく保南君の部屋の前を通り過ぎてゆく。提灯を提げ持っているはずのひとの姿はなく、丸い灯りだけがゆらゆら、宙に浮かんでいたそうで、それはいよいよ、雨戸の隙間から曙光が挿し込むころまで続いた。
  • 一週間ほどして、再び保南君の家に遊びに行った。長い廊下の端、階段もどきと壁が接するところに、近所の神社で貰ったらしい御札が貼り付けてあった。
  • 「こういうの、信じないんじゃなかったっけ。」
  • 「信じてないよ。信じてなくても、効きめはあると神主が云ったからね。焼夷弾が降ってくるよりはいい。」
  • 「猫は?」と、訊ねると、「階段には昇るけど、壁抜けはしなくなったよ。」
  • 「何よりだね。」
  • 「ウン、何よりだよ。」