• 昼前に起きてきて、借りてきたDVDで、ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』をみる。
  • この映画は、真黒なショットから始まる。黒い画面の上にはスタッフの名前が出てきて、その間ずっと、会話している声だけが聴こえる。映画が進むにつれて、シークェンスの切り替わりが、カットではなくフェードアウトが増えてくる。すっぱりとそのフレームのなかで終わらせることのできない事柄が起きてしまったシークェンスは、だいたいフェードアウトが選択される。映画の終わりもフェードアウトである。しかしこのときばかりは、次におずおずと新しい光とショットが開始されることはなくて、最初と同じように真黒なショットに移ってしまい、このままエンドロールとなる。
  • 真黒な画面で始まって、真黒な画面で終わる。これが、死でなくてなんだろう。
  • 死がいつ訪れるのか、私たちには決して判らない。だからこそ、基本的な人権だったり人間の尊厳というものは、どんなときも奪われてはならない。いつ死んでしまうか判らないのだから、それらは今のあなたには必要ないので返納してくださいと云えるようなものではないのだ。これを理屈ではなく、映画の構成としてきちんと描いているから、『わたしは、ダニエル・ブレイク』は優れた映画なのである。
  • この映画は、闇と闇の間に、光が溢れる画面が挿し込まれて構成されているのだが、街路のあちこちで跳ね回ってる曇天の光だったり、窓から射し込んでくるやわらげられた室内の光だったり、夜の階段を照らす電燈の光だったり、どれも決して特別に選りすぐられた光などではないが、ごく微妙な違いがくっきりと捉えられていて、そのありさまがとてもきれいである(撮影はロビー・ライアン)。
  • さらにこの映画は、カネがないということが人間の尊厳とかいうようなものをあっという間に蝕んでしまうことを、そして、「助けてくれ」ということがどんなに難しいことかを、とてもていねいに描いている。
  • せめて風呂場をぴかぴかにしてやろうと掃除していると、タイルが一枚割れてしまう。しかしそれを修繕するカネもすべもない。仕事が欲しくても得られないこととか、身なりに構っていられなくなるとか(ダニエルは髭を剃らなくなってくる。あれは剃れなくなってくるのだ、「どうでもいい」が増えてしまうから)、隣の部屋のゴミ出しに文句を云わなくなるとか、こういう些細なことの積み重ねが、どんどんじぶんの尊厳を磨耗させてゆく。糞を食わされても文句を云う気力がなくなってくる。
  • そういうことの果てに、それでもぎりぎりのところでだれかを助けることはできても、「じぶんを助けてほしい」と云うことは、とても難しいことになってくる。ダニエルに「いつでも助けてくれと云ってくれ」と声をかける人たちは、この映画では決して少なくない(そして彼らはきっと救いの手を差し伸べたことだろう)。しかし、尊厳が磨り減ってしまっていては、私たちはそんなじぶんを「助けてくれ」という声を発することができなくなってくるのだ。諦めが、私たちの喉を重く塞いでしまっているのだ。
  • ケン・ローチは昔少しみただけだったが、こんなしっかりとした映画を撮るひとだったのかと反省する。