『牯嶺街少年殺人事件』をみる

  • レンタルビデオ屋で二本組みのVHSを借りてきた、楊徳昌の『牯嶺街少年殺人事件』をみる。以前みたのとオープニングが違うと思ったら、これは四時間版のほう。
  • 画面に映っているものと、聴こえてくる音(一本のフィルムのサウンドスケープと云うべきか)のそれぞれが絡み合い、裏切り合うなかから、人間の暮らす社会も、其処での生も死も総てを含んで、同時に、それらの総てに一切の顧慮を払わない「世界」が姿を顕わす。その容赦のなさは、殆ど恐怖に似ている。こんな映画を作っていたら長生きできないよと、ふっと思った。
  • ロバート・アルトマンが『ロング・グッドバイ』の最後の最後で、やっと捉えた彼岸の光景だけで、全篇が構成されていて、成瀬巳喜男テオ・アンゲロプロス中島貞夫の最良のものがある、と云うような映画なのだ。兎に角、ひたすら圧倒的だった。
  • システムがァとか社会がァとか云う類のあらゆる言葉が、ぜんぶ馬鹿らしくなる。「世界」に触れることを端から諦めている文藝や哲学の言葉に、何の意味があるだろう。そして、そんなものはビジネス書の能書きで、文藝や哲学とは、何の関係もない。映画や音楽も同様である。