ジャン=マリー・ストローブをみる。

  • 浮き足立っている。焦っている。そういう勢いで本を読んでいるふうなので、ちょっと考えてみて、大江健三郎の『同時代ゲーム』から「第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争」を読み始める。学生のときに読んでから初めての再読。大江の文体に固有のグルーヴ感、または、それこそが彼の「森」の正体であると云いたくなる語彙の豊かさと、それらの接合の巧さから発する、イメージ喚起力の鮮烈さに、このたびも深く揺さぶられつつ、小説が自由であることをまざまざと感じる。
  • ベランダの洗濯物を取り込み、昼遅くから出かけて、新長田の神戸映画資料館の特集上映「ストローブ=ユイレの21世紀」で、ジャン=マリー・ストローブの『魔女、女だけで』、『コルネイユブレヒト』、『おお至高の光』をみる。総て2009年の作品で、云うまでもなく、彼の妻だったダニエル・ユイレの歿後の映画群である。だから、これらは、あの「ストローブ=ユイレ」の映画ではない。
  • 『魔女、女だけで』に於ける、風や鳥の声の輝くような賑やかさ、『おお至高の光』での、刻々と変化する明るさと暗さも(どちらも撮影はレナート・ベルタである)素晴らしかったが、私にとって、断然、面白かったのは『コルネイユブレヒト』で、タイトルにあるそれぞれの劇作家のテクストを、アパートの一室で朗読する女の姿を捉えているのだが、微妙に編集の異なる「a」、「b」、「c」の三つのヴァージョンが連続して上映される(26分×3本)。
  • まったく眠らないでみたのは最後の「c」だけである。「a」と「b」をみながら、うつらうつらと瞼をとじてしまったり、画面を注視しているつもりなのだが、どうやらさっきまでみていたものの記憶を出鱈目に再生していた(つまり、夢をみている)瞬間もあったようだ。また、すぐに破れる短くて浅い眠りを眠りながら、朗読する女の声と、その室内の外から聴こえてくる音だけは、はっきり聴き取っていることもあった。
  • そんなわけで、私がぱっちりと目を開き、耳を澄ませて、画面をみつめていたのは、ようやく「b」の終わりからだった。出征したまま戻らない息子を冥界でも探し続けている母親の独白が読まれる少し前あたりからだ。名前をつけること、名前を呼ぶこと、名前が失われること。そして、名前を消去することと、消去の痕跡が辛うじて残されること。名前なるものを巡る独白は、きょう最初に上映された『魔女、女だけで』のなかでも響いていた。そして、続けて「c」をみて、私は、とても素晴らしい映画をみたと、はっきり感じた(ちなみに、この冥界での母親の独白の部分だけは、「b」がいちばんよかったと思う)。
  • サイレント映画のあとに映画の世界へ持ち込まれた、映像と音声の結びつきは、実際のところ、無関係である。しかし、そうであるからこそ、映像と音の果敢な実験(マリアージュ? 婚姻?)が試みられ続けているのであり、実験の総ての担保となっているのが、ふたつの結びつきに如何なる必然的な関係もないということそのものだろう。
  • この三つのフィルムでは、独りの女が、晴れたヴェランダへと続く開け放った窓の前でコルネイユの断片を、そのあとは、薄暗い室内の、壁際の隅に据えられた椅子に坐って、ブレヒトを読みあげる。その手には、彼女が朗読している戯曲が印刷されている(らしい)厚手の紙(それが判るのは、彼女が読み終えた紙をめくる瞬間の、ずっしりとした音によってである)の束と、青いペンが握られている。ペン先は、台詞の行を追いかける(らしい。なぜなら、キャメラは椅子に坐る彼女の姿を捉えてじっとしたままであり、だから画面にはペンを握る彼女の手の動きがみえるだけで、紙の上を滑るペン先そのものは映らないからである)ときもあれば、朗読の際のリズムをとるために、指揮棒のように揺らゆらとするときもある。
  • なぜ、この三つのフィルムは、連続してみられなければならないのか? 
  • なるほど、それらは、まったく同じものの反復ではない。例えば「c」を三度続けてみる、ということと、「a」「b」「c」を続けてみることは違う。同じ女性に、同じテクストが読まれるのは同じだが、光線の量も、女の声の調子も、その三つのフィルムでは、できるかぎり同じように演出されているとしても、やはり、まったく同じ、ではないからだ。
  • では、三度繰り返されるのは、各々の微妙な差異をはっきりと感得するためなのだろうか? 
  • 無論、繰り返しは、そういう効果も生むだろう。実際、複数の台詞をひとつの女の声が読むのであるから、どの台詞が誰のものであるのかを理解する(名づける!)ことは簡単ではなく、繰り返して三度みることで、それがはっきりしてくる。しかしむしろ此処で行われているのは、差異を際立たせることである以上に、同じであることの肯定なのではないか。実際は、繰り返しのたびごとに微妙かつ決定的な差異を含んでおり、それらは厳密には決して同じではないのであるが(全き同一物は回帰しない)、しかしそれを前提としてまず肯定した上で、さらに、同じであると名づけること、その肯定こそが行われているのではないか。
  • 役者が或る役になって台詞を云うとき、それは、役者個人から出た言葉ではなく、役者が演じている或る役の発する声であると見做されるが、この映画のなかで行われているように、そういう成り代わりをできる限り排して、戯曲を読み上げているのをひたすら撮られたものをみつめているとき、初めから存在する映画に於ける映像と音の分離に加えて、ばらばらであることを肯定しつつ、それでも、なお同じ映画から出でる結びつきを保とうとする映像から、音から、新しい映画の生まれでるのを感じる。厳密には離れていながらしかし同じであることから、別の映像が、音が、結びつくことが可能になる。つまり、それはとても単純なことであり、媒介されて、私たちの想像力が昂進するということなのだ。
  • 或いは、ジャン=マリー・ストローブは、映画を目ではなく、耳でみることを教えようとしているのかも知れない。そのためのレッスンが、彼の映画なのかも知れない。目はとじることができるが、耳をとじることはできない。
  • 帰りに、七十円のミンチカツが旨い店*1を求めてゆくが、きょうはもう店じまいのあとだった。
  • そのまま運動をしにゆくつもりだったが、祝日は八時で閉館するので断念する。隣町の駅前で、残りが少なくなってきた「しま」のごはんを買ってから、出かけていた柚子と落ち合って、スパゲッティを食べて帰宅する。
  • ふたりでジャスミン茶を呑みながら、とらやの羊羹の「新緑」を薄く切って、ちょっとずつ食べる。