帰路。

  • ふと、「おれ、やっぱりゲルハルト・リヒター、好きなのかもなあ……」と云うと、やまもも君に「何を今更!」と失笑される。
  • 東京駅までやまもも君に見送ってもらい、午後一時発の帰りのバスに乗る。
  • バスのなかでは、ふと、気づくと頭のなかで、きのう、日比谷で身体に染み込んだ音楽の断片がずっと鳴っているのだった。
  • ブランショの『望みのときに』を読み終える。「ここでは誰も物語に拘束されたくないのです」と「彼女」が語るように、そしてそもそも、ジュディットとクローディアと呼ばれるふたりの「彼女」が出てくるのだが、この「彼女」を指すのはジュディットだと思って読み続けていたらいきなりクローディアだったことが判ったり、または、どちらなのか判然としないままだったりするのだが、「わたし」が「彼女(たち)」の部屋の扉を開けるところから小説は始まる。「わたし」は「ものごとがまだつづいているかどうかを、その現場まで確かめにやってきた」のであり、「わたし」は扉を開けた「彼女」をみて、「なんてことだ! また、見知った形姿(フィギュール)だ!」と驚いたのであるから、「時間は過ぎていたが、しかしその時間は過ぎ去ったわけではない」のであり、これはずっと繰り返されているのだろう。
  • 「もしも事物の影というものが、事物の引きこもった輝く類似であって、それが事物を類似物から類似物へと無限に投げかえすというのが本当であるならば。」
  • 不意に、スティーヴン・ソダーバーグの『ソラリス』を思いだす。ナターシャ・マケルホーンが、ジョージ・クルーニーと初めて出会うとき、彼女はなぜだか、ドアノブを持って立っている。まるで目の前に不可視の扉があるかのように。
  • 「そしてそれを思いおこすことは、おそらくその同じ空間のなかでさらに一歩進むことでしかない。そこではより先に進むことが、すでにわたしを回帰へと結びつけることなのだ。」……このあたりから最後の一文まで、とても美しい。
  • 山のなかをバスが進む。すり鉢の底のようになっている集落の脇を抜ける。その上の空はまだ、紫と金色をあいまいに混ぜたような夕方の輝く明るさに充ちているが、車窓の向こうに見下ろす、畑と畑の間にぽつぽつと家が並んでいるあたりは、もうすっかり真暗だった。
  • バスのなかできのうのことを思いだすたび、胸が締め付けられるような。或いはまた、空洞ができて、其処だけ、まったくの無感覚になってしまったような。
  • 半時間遅れで大阪に着く。