- 朝起きて肉じゃがを食べてから、借りてきたマイケル・マンの『コラテラル』をみる。頭からちゃんとみるのは初めて。ちょっと過大評価されすぎている気はしたけれど(この映画の評価の高さは、「お前は夢からも現実からも逃げるために夢を利用してるだけだ!」ってトム・クルーズ先輩にビシッと云われちゃって、思わず「はっ……」となってしまったため、というところじゃないだろうか)、やっぱり、明滅する夜の海のなかを泳ぐようなヘリコプタのショットや、ガラス越しの表現を繰り返したのちに、フロントガラスに亀裂が走ることで映画が次の段階に入るさまや、二匹のコヨーテがタクシーの前を横切るところなどは、とても好きだった。
- 夕方から出かけて、同志社で、飯村隆彦の映画に鈴木治行が音楽をつけた四本の上映会に。鈴木氏による簡単なレクチャーのあと(「映像に内在する方向性を見極め、その方向性を音楽でもさらに強調するように、音をつけている」)、『A Rock in The Light』は「映像と音をかっちりと同期させて音をつけてある」ので、そのまま上映される。そのあとの『Film Stripes I』と『II』と『DADA 62』は画面の脇で鈴木氏がその場で音をつけながら上映された。
- 『A Rock in The Light』は、エアーズロックを映す画面のなかに、別の時間のエアーズロックが映る画面が現れて、電子音がさらに重なる。画面内画面が消えたり、画面のなかの光線やキャメラの角度が変わることなどで、音楽も変容する。たとえば、鈴木氏は、ふたつめの画面の出現/消失のちょっと前/後から音楽を流してみせるのだが、その「ちょっと」のタイミングが絶妙なのである。「映像の持つ方向性を強調させる、しかしぴったりと合わせるのではなく、ズレさせながら」という鈴木氏の映画音楽への取り組みの姿勢が、シンプルな映画であるが故に、とても理解し易かった。
- 面白かったのは『Film Stripes I』と『II』だった。
- 瞼を閉じさえすれば、映像は遮断することができる、とよく云われるが、暗闇に浸された映画館のなかで映画をみるとき、瞼というものの薄さが判る。
- 『Film Stripes I』と『II』は、黒と白の塊が、ひっきりなしに画面上で明滅し続ける映画である。黒と白のコントラストがときどき人間の肩や腕、星条旗の断片や黒人の顔として知覚される瞬間もあるが、どちらにしても強い光と影の瞬きが私たちの眼を襲い続ける。そのとき、ふと、瞼を閉じてみた。だが、瞼は薄い。強烈な白と黒の映像は瞼の皮膚を通して、私にみることを迫り続ける。黒と白の明滅は瞼の下でも、はっきりとみえている。たとえ眠ったとしても、映画は私たちの眼を刺激することを決してやめないのだ。
- 『DADA 62』は1962年の読売アンデパンダン展の記録映画だが、重たい何かがゴツリ、ゴツリとぶつかり合うような鈴木氏の音楽がとてもよかった。
- しかし、この時代の日本の前衛というのは、やはり極めてドロドロしていてベッタリと重ったるいものだというのを再認識した。日本の戦後美術というのは、やはり、破壊以前の形態が類推できる「廃墟」からの出発ではなく、何か不定形なものがグチャグチャになっている「焼け跡」からの出発だったのであり(たとえば当時最もスマートな作曲家だった黛敏郎が日本の伝統音楽に向ったのは、そういうグチャグチャねちゃねちゃしたものに、明瞭なかたちを与えてすっきりさせることを、じぶんならうまくできると踏んで、はじめたのだろう)、こういうことを、私はずっと放置している「一柳慧のいる透視図」で展開して書かねばならないのだと云うことを、久しぶりに突きつけられるようだった。
- 終わってから、やはり聴きにきていたMT君とi嬢と、近くのつけ麺屋に入る。ふたりと久しぶりに会って、ちょっと興奮しすぎて喋りすぎた。猛省しつつ帰路。
- 京都駅のキオスクで、抹茶の生八橋を買う。