『さらば、愛の言葉よ』をみる

  • 仕事を終えてから梅田まで出てシネリーブル梅田でジャン=リュック・ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』を3D版でみる。後ろの青年が素っ頓狂な3D効果が出現するたびにクスクス笑っていて、冷笑家ぶることが知の優位を示すことだと思っていられるのは何歳までなのか(それともずっとこのままなのか。それは何と陰惨なことだろう)とちらりと思う。しかし、JLGの3Dの使い方が素っ頓狂であることはそのとおりなのである。それは、普通の3D映画というものが、如何に2Dに馴れ親しんだ私たちの眼に、過剰なほど配慮していたかということがよく判るほどだ。どうしてわざわざこういう素っ頓狂なことをJLGは真面目にしてしまうのか、と問わなければならない(彼はこれを真面目にやっているのだと信じること。これは、信じるしかない。その裏づけになるのが、彼の作品がこれまでどういうものであり、それをこちらがどうふうにみてきたかということになる)。いつものゴダールの画面に比べると、今回は斜めの構図が多いような気がする。何だかJLGの模倣みたいなJLGの画面が続く前半のあと、ワンちゃん映画となる後半。画面は素っ頓狂だが、音響はずっと、いつものように洗練の極み。2Dだろうが3Dだろうが、やっぱり途中で眠る(最初に映画館で映画をみながら寝てしまうという経験を私がしたのもJLG。梅田のシネマヴェリテでみた『ヌーヴェルヴァーグ』)。ところで、押井守は愛犬家として映画を撮ることをやめて、ずっと混迷しているようだが、それがどんなに気持ち悪くても、やはりあの道を棄ててしまうことは誤りであったのではないかと、ふと思う。