- 同時代の日本の小説を読まずに、じゃあ何を読んでいるのかと云えば、主に西欧文学の古典である。甚だしい怠慢の所為で、著しく外国語を読みこなす力を欠いているため、専ら翻訳で、と云うことになるが。
- いま読んでいるのはデーブリーンなのだけど、引越の荷物を作っていると、段ボール箱に詰めなければいけない本のページを繰ってしまうと云う由々しき事態が往々にして起こる。で、たまたま読みだしてしまったのだ、フランツ・カフカを。しかも「変身」を。初読である。学生の頃は、じぶんの他は誰も読んでいないだろうと思えるような本ばかり読んでいたので、こういう基本中の基本を私は読んでいなかったりするのだ。
- 私には、「妹萌え」の属性が著しく欠けている。しかし「変身」を読んで、「妹萌え」が何たるかが、はっきりと判った。グレーゴル・ザムザは、窮極の「妹萌え」だったのである。そして、なぜじぶんに「妹萌え」の要素が欠如しているかも判った。
- グレーゴルくんは虫になる前は、外回りのきつい営業をやっていた。商売に失敗した父と身体の弱い母の暮らしを支え、かわいい妹のグレーテの夢を叶えてやるために。短い物語の終盤近く、妹がヴァイオリンを弾くシーンがある。虫になってしまったグレーゴルくんだが、その焦茶色の醜怪な甲殻のうちに、まだいきいきと妹への思慕や家族への愛を留めているのである。懐かしいヴァイオリンの音色につられて、閉じこめられている部屋を、そろそろと居間へ出てゆくグレーゴル虫。
グレーゴルはまた少し前へ乗り出し、妹の眼差しに出くわすように、顔をぴったり床につけた。獣だからこそ、それで音楽がこんなに身にしみるのか? ひそかに求めている未知の食べ物への道が示されたような気がした。妹のところに進み出ようと、グレーゴルは決心した。スカートを引っぱって、それとなく示すのだ。妹はヴァイオリンを持って自分の部屋に来るといい。この部屋では甲斐がない。自分のもとでこそ演奏が生きてくる。そのあと、もう部屋から出したくない。少なくとも自分が生きている限りは、出さないだろう。おぞましい姿でいるのが、はじめて役に立つ。どのドアも見張っていて、向かってくる者は撃退しよう。妹は強いられてではなく、自分の意志で彼のもとにとどまるといい。自分と並んでソファにすわる。耳を寄せてくる。そのとき、グレーゴルは打ち明ける。音楽学校へやることをきめている。このたびの災難がなければ、この前のクリスマスに−−クリスマスはもう過ぎたのだろうか?−−みんなに披露していた。異議が出ようとも取り合わない。グレーゴルの宣言を聞いて、妹は感動のあまり泣き出すだろう。グレーゴルは立ち上がり、妹の方のところにのび上がって、首すじにキスをする。(訳・池内紀。白水社版)
- ああ、だがグレーゴル虫のうるわしい「妹萌え」はこのあと、こっぱみじんに打ち砕かれる。しかしそれを従容として受けいれて破滅するグレーゴル虫。「妹萌え」に生き「妹萌え」に死んだグレーゴル。その悲痛なことよ!
- 「妹萌え」とは無垢なるものへの憧れなのである。でも、無垢なるものは必ず裏切る。ナボコフの『ロリータ』である。私も、何ものかに熱烈な思慕を抱いて破滅することへの憧れの気持ちは充分に判るが(最も好きなオペラは『トリスタンとイゾルデ』だ。しかしあのオペラは筋ではなく音楽こそが物凄いわけだからなあ……)、それを無垢なるものから与えられることを好まない。無垢なるものを信じることができないのである。
- しかし、大岩ケンヂの『NHKにようこそ!』(と云う引きこもり漫画を私は弟から借りて読んでいる。滝本竜彦の原作小説は未読)の主人公が「変身」を読んだら、きっとまた自作のドラッグを大量服用して自殺未遂を図ったりするのであろうな。「毒虫な俺の背中に真っ赤な林檎で絨毯爆撃してくれぇぇ〜」とか叫ぶであろうか。
- では最後に、導師ウラジーミル・ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』より、カフカのこの「悲劇的に滑稽な」傑作を論じたシメのお言葉を。
カフカの文体に注目しよう。話の悪夢的内容と鮮やかな対照をなしている文体の明晰さ、その正確で格調正しい抑揚。いかなる詩的比喩も彼の赤裸な黒白判然たる物語を飾りたててはいない。彼の文体の透明さが、その幻想の暗い豊かさを際立たせている。対照と統一、文体と内容、様式と筋立てとが、この上なく完全見事に統合されているのである。