『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』をみる。

  • 夕方から柚子と元町の大丸に。柚子が同僚と連名で、会社で配る義理チョコを買うのに付き合い、それから私には、デメルの「猫の舌」チョコを買ってくれる。少し早いけど、と。
  • そのままミント神戸まで出て、デイヴィッド・フィンチャーの『ベンジャミン・バトン』をみる。3時間弱の尺を余さず使って、とても丁寧に作られた「アメリカ=映画」だった。俳優は皆いきいきとしており(ティルダ・スウィントンの美しさよ。しかしケイト・ウィンスレット……じゃなかった、ケイト・ブランシェットは老けメイクのほうが美しい。特に老々介護のあたり)、美術は充分に凝っていて、脚本と物語の流れは、とてもよくできている。村上春樹が小さな短篇から『ねじまき鳥クロニクル』を作り上げたのを思い出した。
  • この映画は、2005年、ニューオリンズ州を襲った巨大ハリケーンカトリーナが接近するなか、死の床にある老婆が、それを看取る娘との間で、第一次大戦の参戦から始まる20世紀アメリカ史を生きたひとりの男と彼女の物語を、やり取りすると云うものだ。
  • 冒頭、「アメリカ帝国の指導者を自任したセオドア・ローズヴェルト」(生井英考)大統領が登場し、彼の前で、駅の大時計の針はチクタクと逆回転を始めるのだが、映画は小ブッシュの時代で幕を閉じる。しかも、それは、さっきも書いたが、9.11の熱狂ののち、イラク戦争の泥沼化と共に、その対応のまずさから、彼の支持率をガタ落ちさせることになる、ハリケーンカトリーナの襲来のときと共に、である。
  • やはり、今のアメリカは、すっかり疲れきっているのだろう。若づくりすることにも、限界がある。世界中のあらゆる場所に出かけ、あらゆるものをみて、愛して、戦ってきた。主人公が船乗りであることは偶然ではない。しかし、異文化との接触やクラッシュなんてもうたくさんだ。そんなものは国内だけで充分だ。私たちは黒人のリーダーを選ぶくらい他者へと開かれているのだから、と*1。だから、もう外には一歩も出たくない。再び愛する女=母親の腕のなかに戻って、其処で深い深い眠りを貪りたい……。モンロー主義のころへの回帰願望を、私はこの「アメリカ=映画」から強く感じた。アメリカが、その引きこもりの原則を最初に棄てた、米西戦争と、海外派兵の可能な大艦隊の建造が、セオドア・ローズヴェルトの時代であることは、云うまでもないだろう。
  • 私は映画館の暗闇のなかで、別のフランス映画を、『ロング・エンゲージメント』のことを思いだしていた。やはり、第一次大戦の悲惨な塹壕戦から始まり、その戦場で死んだものを、再び甦らせようと奮闘する映画である。監督はジャン=ピエール・ジュネ。デイヴィッド・フィンチャーと共通しているのは、『エイリアン』シリーズを監督することで、大変な苦汁を舐めた映画作家であると云うことだが、『ロング・エンゲージメント』は『ベンジャミン・バトン』に比べると、底抜けに明るい。それは、ジュネが意識しているかどうかではなく、ヨーロッパそのものは、これまでもたびたび、歴史の終わりに直面してきたからだろう。しかし若いアメリカの映画である『ベンジャミン・バトン』には、初めて味わう、世の終わりの絶望の辛さが、しみじみとフィルムに定着している。しかも、それを寓話(寧ろSF、またはファンタジィと云うべきか)でしか語ることができないと云うのが、ますます、アメリカの絶望の深さを、色濃く物語るかのようだ。または、『ベンジャミン・バトン』と同様、やはり主人公を真っぷたつに分裂させる寓話で、9.11の気分を、9.11以前に語ってしまっていた『ファイト・クラブ*2の監督としてのフィンチャーなりのアンガージュマンなのかも知れないけれど。しかしフィンチャーの映画としてなら、『ゾディアック』を、私は取る。
  • 場内が明るくなり、映画をみたと云う満足より寧ろ、一冊のよくできた長いお話を読んだときの充足に似たものを味わいながら、柚子と映画館を出る。『レボリューショナリー・ロード』のような怖ろしくなるほどの傑作ではないけれども、よくできていると思った。
  • 磯崎新の『建築における「日本的なもの」』を読み終える。めちゃくちゃ刺激的な一冊だった。

*1:もちろん、例えば、オバマが大統領になったことが、アメリカに於ける差別を見えなくすると云うことは間違いなくあるはずである。

*2:ラストの、窓越しの高層ビルの崩落シーンにではなく、だからブラッド・ピットエドワード・ノートンと云う鏡像、双子の死にこそ、WTCの崩壊を重ね合わせるべきである。