猫に怒る。

  • 部屋で書き物をしたり本を読んだりうたた寝をしたりして、六時に、U君を駅まで送る。
  • 柚子が会社に出るのを見送り、皿を洗い、洗濯機を廻し、洗濯物と蒲団を干して、少し眠る。
  • 日夏耿之介の『サロメ』の翻訳に、ちょっと感動する。
  • 夜、「しま」のカリカリがなくなっていたが柚子が買い忘れたので、それは全然しかたのないことだから私が自転車を飛ばして、閉店間際の駅前のスーパーに駆け込む。
  • 部屋着のフリースの上にコートを着込んで出てしまったので、汗が出て、熱い。熱くなると苛々する。
  • 帰宅して、居間の隅の埃が気になって、掃除機をかける。一階の全部と階段まで。
  • スーパーで買うと、「しま」のカリカリの袋(ちなみに「しま」はサイエンス・ダイエットの「キトン」を食べている)の口にジッパーがついていないので、空になったジッパーつきの袋に、こぼれないように慎重に詰め替えた。……のだが、一瞬目を離した瞬間、「しま」が詰め替え終えたばかりのカリカリの袋をどさーんと倒し、まだ口が開いていたので中身の大半を床にぶちまける。私は、もぅ、怒る怒る怒る。奥の台所でトンカツを揚げている柚子が「どうしたの!?」と吃驚して脅えた声を出す。「しま」、逃げる逃げる逃げる。
  • しかし、怒り心頭で階段をあがる私に、「しま」は後ろから、くっついてくる。怒りを静めて、段ボールのきれっぱしを持って、再び居間に戻り、散乱しまくったカリカリを段ボールのきれっぱしで一箇所に集めて、袋に戻す。床の上のカリカリを「しま」がつまみ喰う。笑ってしまう。
  • 柚子が揚げてくれたばかりの肉を喰う。肉を喰うと苛々が消える。これ、ホント。セロトニンがドバドバ出るのだ。のんびり晩御飯を食べて、柚子が買ってきてくれたケーキを食べて、風呂を洗う。
  • 真夜中、ジョージ・スタイナーの『ハイデガー』を久しぶりにひっぱりだしてきて(困ったときと悩んだときは私はいつもハイデガーの本が並んでいる棚の前にいる)ぱらぱらめくってみる。何でスタイナーはこれほど明瞭に、ハイデガーを切り取ることができるのか、いつも感心する。

後期のハイデガーに、真理が隠されていると同時に自己開示するという二律背反を描出させ、できるだけ明瞭なものにすることを可能ならしめているのは、藝術である。藝術が閉鎖と光の放出の弁証法的相互作用を演じてみせてくれるのだ。偉大な絵画なり彫刻なりが明らかにし、提示し、感知しうるものとするところの意味および「そこにあること」の本質は、明々白々「その中」にある。それは事物の実体の中に具体化されている。われわれはそれを外的なものにすることはできないし、作品の特殊的な質量や形態から抜き出すことはできない。この意味において、それは隠されているものである。しかし、そのように具体化し体現しているということは、とりもなおさずまた明白にすること、開示すること、明確に光を投ずることでもある。「非隠匿性のうちに秘匿・保管がある」('In der Unverborgenheit waltet die Verbergung')。ハイデガー美学にあっては創造と保管、構成と保存は絶対に分かちがたいものである。真の藝術であれば、いかに革命的な藝術作品であっても、それは保存しようとし、存在に対してほかに見出しえないような住みか、庇護の場所を与えようとする。