テン年代(笑)のその前に。

  • やはりとても寒い一日になる。
  • 午後から柚子は出かける。Skypeのチャットで134君と駄弁る。せめて存在に就いて考える動物になろう、と。
  • Skypeで帰省中のBさんとチャット。フルクサスの諸々のアートにパッと反応できない理由が判る。フルクサスはフェティッシュを禁じる。例えば、ネクタイを切られたら、私は激怒するだろう。私は、ネクタイを選ぶのも、それを巻くのも好きだから。つまり、私は資本主義に容易に接続され得る(資本主義の源泉であると云うべきか)フェティッシュであることを決して棄てられないので、フルクサスに全面的に賛意を表することができないでいる。ちなみに、フルクサス創始者であるマチューナスの驚愕のエピソードが、彼の親しい友人だった一柳慧氏から、『アラザル』でのインタヴュで語られている。
  • と、書いたところで、『アラザル vol.3』で私が行った一柳慧氏へのインタヴュに就いて書きとめておきたい(134君とのチャットでそういう話になったので)。
  • なぜ一柳慧に就いて書き始めたのかとよく問われるのだが、突き詰めれば、『エロス+虐殺』を中学生のとき、レンタルヴィデオ屋で借りてきてみて、吃驚したから、と云うことになるだろう。私は主に、日本の現代音楽と云うものに、映画を通して接してきた。市川崑中平康の映画から黛敏郎と、勅使河原宏大島渚の映画から武満徹を、と云うふうにして。そういうかたちの邂逅の最初が、吉田喜重の映画から遭遇した一柳慧だった。吉田の映画をみたのも初めてだったから、そのとき私は、二重の衝撃を受けたわけだ。
  • これは一柳慧に限っての話ではないが、日本では、自国の現代音楽の作家たちを知るための手がかりが少な過ぎる。著作集や全集が刊行され、少なくない書き手たちによって批評が紡がれている武満徹が、唯一の例外だろう。高橋悠治の著作だって、絶版になったままのものが殆どだし、音楽界の狭い範囲だけでなく、1970年代以降、最もブリリアントな知性であり書き手のひとりであると思われる近藤譲の著作集が刊行されていないのは、信じられない。また、彼のことを書くなら、戦後のカルチャー史と政治史の両方を包括することだってできるに違いない黛敏郎浩瀚な伝記が出版されないのはどういうわけだ? 澁澤龍彦に関する本はあれだけあるのに、矢代秋雄の評伝だってないし、ケージとブーレーズカラヤンから絶賛された松平頼則に就いての本もない(彼に関しては、昨年から「101年目からの松平頼則」と云う演奏会が開かれているのは喜ばしい限り)。その子息である松平頼暁の大変興味ぶかく不思議な仕事を紹介する本もない。若い作り手なら、例えば夏田昌和の音楽が私はとても好きだが、彼の作品の録音はまだ出ていない!
  • それは、彼らの音楽がつまらなかったからか? そうではない。それは、まったく、違う! 彼らの作りだした音楽は、とても面白い。戦後日本の映画や美術や建築が、世界に類をみない面白さがあったように、彼らの音楽もまた、極めてユニークで、驚きに満ち溢れている。
  • 2001年2月号の『STUDIO VOICE』は「日本の作曲家 伊福部昭からコーネリアスまで」と題された特集で、正直、もっと突っ込んだ特集をしてほしかったと思うのだが、このなかで、一柳慧の紹介を書いているのが中原昌也で、彼は次のように書いている。

どれを聞いても現代音楽は全部空虚だ、という印象を免れぬのは仕方がない。いまさら前衛だなんてアホくさ、と頭で思っていてもやはり一柳慧のプロフィールには「60年代の前衛っていいもんですよね。俺もこの時代に生まれたかった」と言わずにはいられない。
小野洋子ジョン・ケージフルクサス、そして吉田喜重と、彼がかかわってきた人たちの名前を羅列しただけでウットリ……なんていうミーハーなことばかり書いても仕方ないが、現在の日本には一柳慧を語る為の素材が何もないのも確かである。音源はまるでどれも入手困難であり、そもそもフルクサス時代の彼を論じた書物さえないのだから……。われわれが簡単に触れることのできるのはビデオ化されている吉田喜重の作品(『さらば夏の光』『エロス+虐殺』『告白的女優論』『戒厳令』など)や80年代に入ってからの幾つかの他の映画作品だけである、というのは何とも淋しい……。

  • 中原昌也の記事から約十年を経て、しかしその状況は、ほんの少しずつ改善されている。この短い文のなかで中原が挙げている《パラレル・ミュージック》や《ライフ・ミュージック》、《東京1969》はCD化されたし、大傑作《オペラ横尾忠則を歌う》も復刻され、《アピアランス》や《ミュージック・フォー・ティンゲリー》を収めたCDも発売された。《サッポロ》や《リカレンス》、そして、総ての映画音楽など、まだまだ出て欲しい音源は幾らでもあるが、では、それらの音楽を生みだした一柳慧と云う作曲家がどのような人物であるのかを知るための手がかりへのアクセスは、きわめて面倒である。なるほど、一柳は『音を聴く』と『音楽という営み』と云う二冊の本を出版しており、そのなかで自作への取り組みや作品に就いて、丁寧な言葉で語っている。しかし、それらの著作で纏められた文章が書かれたのは、1980年代以降のものだけなのである。だが、一柳慧の作曲家として、ピアニストとしての営みは、早くも1950年代からスタートしているのだ。古い雑誌や本を古本屋や図書館でぽつぽつと集め、若き日の一柳慧の痕跡を捜し歩いてみると、いろいろな処でそれを発見することができた。しかも、見つかってくるものはどれも、戦後日本のカルチャー史のなかで、極めて興味ぶかい事例との係わりばかりなのだった。
  • そのあたりのことを、ご本人の言葉で語って欲しいと思い、『アラザル vol.2』で「一柳慧のいる透視図」を書き始めてから、その原稿が載った『アラザル』を携えて、金沢までゴトゴトと鈍行で出向いた。21世紀美術館で開催されていた「愛についての100の物語」展で、一柳氏が《オープン・ダイアローグ》と云う作品を出しておられ、そのインスタレーションを使った演奏会が行われるのを知ったためだ。演奏が終わったあと、『アラザル』と手紙を添えて会場の片隅におられた一柳氏に手渡し、インタヴュを打診してみた。すると一柳氏は、その場で、「構いませんよ」と快諾してくださった。
  • そして八月、横浜の神奈川県民ホールと、シュトックハウゼンの《グルッペン》が上演される開演時間ギリギリまで、サントリーホールの隣のANAホテルの喫茶室で、六時間に及ぶインタヴュをさせていただくことになった。
  • あれこれの資料を読むだけでははっきり見えてこなかったことを、先ほど挙げた著作のなかでは語られていなかったことを中心に、思いつくことを次々にお訊ねした。戦時下の少年時代のこと、原智恵子のこと、武満徹のこと、占領が解除されてすぐ旅立ったアメリカでのこと、ジョン・ケージのこと、オノ・ヨーコのこと、フルクサスのこと、内田裕也のこと、吉田喜重松本俊夫との映画音楽の仕事のこと、磯崎新のこと、ディスコ「スペースカプセル」のこと、雅楽のこと、どういうふうに作曲しているか、好きな画家や小説家のこと、映画作家のこと、尊敬する作曲家のこと、等々。一柳氏は、そのそれぞれに、とても真摯にお答えくださった。インタヴュアの勉強不足の所為で、たぶん、もっとお訊ねせねばならなかったこともあったはずなのだが、それはお詫びしつつ、取りあえず、ぜひ読んでみてほしい。このところ、こればっかり云っているが、本当に読んでほしいので、諒解してほしい。
  • 皿洗いをして、流しを掃除する。洗濯物を干す。
  • 駅前のスーパーで柚子と待ち合わせて、年末の買物の荷物持ち。駅までの夜道は自転車を漕いで行ったのだが、風が速くて、肌を刺すほどの冷たさだった。雲の流れるのも疾くて、月がぎらりと輝いて、家々の屋根の瓦をぬらぬらと照らしていた。
  • 帰宅して、TVをつけて暫らくすると、『紅白』でPerfumeが出ているのを眺める。その後も、ときどき眺めて、小林幸子がじぶんの上に乗って、西田敏行がそれに合掌して拝んでいるのとか、石川さゆりをみる。
  • お手洗いで、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』を読む。出てきて暫らくすると、年を越す。柚子に年始の挨拶。TVをつけっぱなしにしていると「星も光りぬ」が聴こえてくる。プッチーニはやっぱり凄いわ。
  • 柚子と一緒にみた映画の話をする。『ダージリン急行』が柚子のお気に入りである(あとは『ノーカントリー』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』など)。それらも好きだが、私はやはり『フルスタリョフ、車を!』。
  • 部屋に上がって、高橋アキのピアニズムが冴え渡る一柳慧の「ピアノ・メディア」を聴く。二時過ぎ、愈々寒くて蒲団に入るが、ここ数日、どうも寝つきが悪い。眠っても、とても浅い眠りで、時折、パッと目が醒める。たぶん五時頃から眠りが深くなり、けっきょく目が醒めるのは昼。
  • 今年は本当にいろいろな方にお世話になりました。どうぞ、皆さま、良いお年を。