• トニー・ジャッドにティモシー・スナイダーがインタヴュする『20世紀を考える』の、スナイダーによる「まえがき」がとてもいい。

本書は対話の力を主張するものであるが、おそらく読書の力をより強く主張するものでもある。わたしはトニーとともに学んだことはないが、彼の頭脳の蔵書目録はわたしのそれとかなり重複するものであった。わたしたちのそれまでの読書はひとつの共有空間をつくり出しており、その中でトニーとわたしは、行き先が分からなくなったような場合には標識や見通しを指摘しあいながら、冒険の旅をともにしたのである。

伝記と歴史とを結合させる主旨とは、もちろん、トニーの関心事と業績が、井戸からバケツで水をくみ上げるかのように、彼の人生を知ることによって引き出して理解できるということではない。わたしたちはみな、地面にまっすぐに掘られた穴ではなく自分自身でもどこにつながっているのか分からない広大な地下洞窟のようなものである。複雑に見える仮面を剥げば物事は単純なものであると主張したいという欲求は、二〇世紀の悪疫のひとつであった。トニーに彼の人生のことを質問するにあたって、わたしは単純な説明への欲求を満たそうとはせず、地下洞窟同士をつなげているかもしれないが、その存在は最初はぼんやりとしか感じられない通り道を探して、洞窟の壁をたたきながら進んだのである。

わたしが思うに、真実はより興味深いものである。叡智というものはどうやら、内部者であり同時に外部者であることから生まれ、目を見開き耳をそばだてて内部を通過し、そこから外部に出て思考し書くことから生まれるのだ。トニーの人生があきらかにしているように、このような移動は何度でもくりかえして行うことができる。トニーは自分のことを外部者だと思いながら、すばらしい仕事をやってのけた。外部者はある論争の前提条件を暗黙のうちに受け容れつつ、必死の思いで正論を主張する。そのためには守旧的な防壁を切り崩し、内部者の聖域へと突破していくことが必要になるのだ。(……)

あるひとつの出来事を理解するためには、歴史家はひとつの枠組みを手放していくつかの枠組みが同時に正しいことを認めなければならない。そのような理解は直接の満足を与えてくれなくなるものの、はるかに朽ちることの少ない結果をもたらしてくれる。このような意味での複数主義をトニーが受け容れたことによってこそ、トニーの最上の仕事、とりわけ『ヨーロッパ戦後史』が生まれたのだ。

歴史家にとっての真実と評論家にとっての真実は異質なものである。歴史家は、評論家が現在起きていることについて知りうる以上に、過去のある瞬間について知ることができるし、知らなければならない。評論家は、歴史家よりはるかに、自分自身の時代の偏見を考慮に入れることを強いられ、したがって主張を強調するために誇張をすることを強いられる。真正であるという意味での真実と、正直であるという意味での真実は別物だ。真正であるということは、ある人が、ほかの人にも生きてほしいと望むあり方で生きることにほかならず、正直であるというのは、それが不可能だと認めることにほかならない。それと似ているが、慈善の真実と批評の真実は異なる。わたしたち自身とほかの人びとのうちにある最上の部分を引き出すためにはその両方を必要とするが、それらは同時には実現できない。これらの異なる真実の組みあわせのすべてをある究極の真実の形態へと還元することはもちろん、それらの共通の土台となるようななんらかの真実へと還元することはできない。かくして、真実の探求とはさまざまな種類の探索を必要とするものなのである。なるほどこれは複数主義だが、この複数主義とは相対主義の類義語なのではなく、むしろ対義語なのだ。複数主義は、さまざまに異なる真実がそれぞれの精神的な現実性をもっているということを認めるが、それらがすべて単一のものさしで、単一の価値観ではかれるという考え方を拒絶するのだ。

わたしたちが探究するのではなく、逆にわたしたちを追いかけてくるひとつの真実があり、それは完全な真実である。すなわち、わたしたちはみな死すべき存在であるという真実だ。ほかのさまざまな真実は、ブラックホールのまわりの星々のように、この真実のまわりをより輝かしく、瑞々しく、しかし重みを失いながらまわっているのである。