• 昼前に起きてきて、借りてきたDVDから城定秀夫の『悦楽交差点』をみる。七〇分のエロ映画というフォーマットのなかに、どうやったらそれ以上のものを持ち込めるかということを城定の映画は常に模索していて、それはいつも分割によって齎される。先日今池でみた『痴漢電車マン淫夢ごこち』では、別々に走ってきたストーリーが或るひとつの画面上でぴったりと重なった瞬間、画面が三分割されたり(これをタテの分割と呼ぼう)、画面に映っていることとは別のストーリーを膨大なナレーションによって駆動させたりしていた(これはヨコの分割と呼ぼう)。
  • 今回の『悦楽交差点』はタテの分割によって概ね構成されている。男が語るひとつのストーリーは折り返されて、女が同じストーリーを語りなおす。見る/見られる関係の逆転劇でもあるのだが、折り返されたストーリーの表と裏を貫いて、それぞれが結節されるきっかけは、画面の奥からこちらをまっすぐ見つめてくる古川いおりの視線である。それは画面を貫いて、共犯関係を取り結ぶことを誘う。そして、本作でもヨコの分割(サウンドで映画を重層化する)も施されていて、映画のクライマックスで、サウンドを消してしまうことによって実践される。古川いおりが何かを云う(これは読まれうるメッセージであるということが読唇術への言及によって、あらかじめ映画内で指示されている)のだが、観客には聴こえない。聴こえないが意味のある発話として画面に映っているのだから、観客にはそれを「聴き取る」ことが求められる。こうして、映画は七〇分の枠を超えて、私たちのなかで続く。しかも、この城定の分割の試みは、どれも古川いおりという女優のふるまいを通して起動しており、女優を色っぽく撮るということの城定の技術とシステムの確かさに、今回も感心する(城定がアイドル映画を撮ったら絶対いいだろうと思っていたので、SKEじゃなくてHKTのクリップを撮ったということを聞いて、地団駄を踏んだ)。
  • 『悦楽交差点』も『痴漢電車マン淫夢ごこち』でもそうだったが、映画の終わりは、警察に追いかけられながら、馬鹿笑いしながら、逃げて逃げて逃げ続ける。終着点が明示されることはない。タテとヨコに折り返して、分割して、ひたすら走り続けるだけである。
  • 実家からの荷物を引き取ったり、「しま」と遊んだり、本を読んだりだらだらしているうちに、夕方になって、出かけるのは諦めて、柚子が帰ってくるのを待って、柚子が買ってきてくれた中華料理を食べて、居間で毛布を被って眠る。
  • 慰安婦像で大騒ぎして発狂しているやつらの土人ぶりがほんとうに恥ずかしくて嫌だ。中共とかで日本がらみの宣伝工作の仕事をしてるやつらは楽でいいだろうなと思う。我が国のアニミズムレイシストたち、じぶんの祖先たちの栄光も罪も全部ひっくるめて引き継ごうという気なんかさらさらない器の小さな自称愛国者たちが喚き散らしているツイートやら何やらをスクショして、「ね。こいつら何年経っても変りませんわ」ってみせて歩けばいいだけだから。それだけで仕事になるんだからこんな楽チンな部署もないだろう。
  • ほんとうに恥ずかしい。これでもまだじぶんは右派で保守のつもりだから、あの国とかこの国のことじゃなくて、我が国がひたすら恥知らずの糞野郎に成り下がってゆくことが、ほんとうに情けない。
  • 丸山眞男の仕事が、半世紀も経っているというのに、いつまでも私たちの社会への批判的な力を保持しているということが、私たちの社会の最大の問題だ。カネがあったころは、カネが私たちの社会の近代化されていないところ、人権感覚のなさやらレイシズムなりを覆い隠していた。しかしカネがなくなったら、そういうものが噴きあがってきた。なくなっていたのではなくて、噴きあがってきたということが情けない。ほんとうに情けない。
  • 韓流ドラマの流行のあとに嫌韓が噴き出したのは、大好きな母親が女になってしまったことへの憎悪だったんじゃないかと何となく思っている。
  • mkm君とメールでやりとりしていたらシェルヘン熱が再発したので、マーラーの全集とか引っぱりだしてきて聴いている。やはり《六番》と《七番》が最高である。きょうは《七番》を聴いているが、これがとてもいい。《七番》って難しいけれど、これでいいと思う。