『愛、アムール』をみる

  • 仕事を終えてからシネ・リーブル神戸で、ミヒャエル・ハネケの『アムール』をみる。
  • 冒頭、アパルトマンの扉が破壊される音に驚く。このごろずっとエッシェンバッハの録音で繰り返し聴いているシューベルトのD899の《即興曲》が使われていて、そういえば『ピアニスト』でもシューベルトが重要だったのを思い出す。ピアニストのアレクサンドル・タローが本人の役で出ている。ときどき画面を占める漆黒のグランドピアノは棺桶にしかみえない。
  • 人間の営みをレンズの冷たさで観察するフィルムばかりを撮ったスタンリー・キューブリックに思想というようなものがあるなら、たぶんそれは『バリー・リンドン』と『アイズ・ワイド・シャット』に最もよく現れている。人間のあらゆる行為は愚行であり、キューブリックはそれを、さまざまなシチュエーションで抽出しては、面白がっている作家だった。だから彼の映画は皆に愛される。
  • ミヒャエル・ハネケもまたキューブリックと同じだろうか? ハネケがキューブリックとまったく違っているのは、人間のあらゆる行為が愚行であるということを、ちっとも面白がることができないという点である。ハネケは、そのことを面白がるどころか、むしろとても恐れ、脅えている。総ては畢竟、愚行でしかないということに直面してしまうとき、そのあまりに大きすぎるだろうダメージを少しでも軽減するために、ハネケは映画を用いて、それをあらかじめ、能うかぎりシミュレーションしておこうとしているのではないか。しかし模像がうまくゆけばゆくほど(だから彼の映画を単純にリアルであるというのは実は違うのである)、人間の行為は総て愚行であることを最も恐れるハネケのフィルムこそが、そのことの不可避をますます信じさせるようになってしまうのである。
  • ハネケの映画とは、もう殆どずうずうしいほどに過敏な臆病によって、できている。が、しかしそれをただ笑い飛ばすほどの豪胆も、もはや私たちにはほとんど残っていないだろう。