『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をみる

  • 仕事を終えてから、柚子とハーバーランド大垣書店で待ち合わせて、映画館へ。16日はOS系は1000円なのだ。開場の前に、柚子が作ってきてくれたサンドウィッチを食べる。大変美味。
  • スコセッシの前作『ヒューゴの不思議な発明』は、3D映画を従来の2D映画のミルフィーユ化として使う可能性を最大限に推し進めた意欲作だったが、今回のスコセッシは大変リラックスしている。ひたすら偽悪的で悪趣味で下品。しかし、爽快である。偽悪と下品の風味では、ときどき、殆どラース・フォン・トリアーの映画のようになることさえある。もちろんトリアーは観客をうんざりさせるまでエロとグロを塗りたくるが(そして、うんざりさせることこそが彼の狙いなのだ)スコセッシはそこまではやらない。『キングダム』で「糞デンマーク!」を絶叫したトリアーにとって、デンマークだけでなくあらゆる土地は糞だからであるが、しかしスコセッシの「アメリカ」はそうではないからだ。スコセッシの、いや、多くのアメリカの映画作家たちにとって、自由を圧迫する強権的で傲慢な「政府」と、「建国(とその理念)」は乖離しており、後者としての「アメリカ」は、変わらずレスペクトされ続けているのである。
  • 雪だるまのように膨れあがる泡銭と共に、ディカプリオのファックシーンとドラッグへの嗜好がマニアックなものになってゆくのが可笑しく、鋭い。デカパイを腕にこすりつけられて叫んでいた青年はやがて肛門にピンクのロウソクを突っ込まれるようになり、ドラッグのほうも、ヴィンテージものの錠剤を浣腸までして堪能するようになる。
  • 美女のケツと山盛りのコカインとイカ臭いホモソーシャルな会社ごっこを、発情したようなキャメラで(撮影はロドリゴ・プリエト)、スコセッシはひたすら追い回す。愉しくてしかたがない、というふうに。しかしやがてスコセッシ爺は、長い興奮の果てに、ふと我に返る(ヌいたのだろう)。糞としての「アメリカ」と、偉大なるアメリカ精神を育む肥沃な土壌の「アメリカ」を、きれいに選り分けることなんて、本当に可能なのか? 
  • 誰もがモーツァルトに憧れる。しかし、誰もがモーツァルトになれるわけではない。では、モーツァルトになれないなら音楽を諦めるのか? そもそも、モーツァルトになる、とは、どういうことなのか?
  • 三時間の長尺だが、大変愉しんで、帰路に。スコセッシの映画のなかで、いちばん好きかも知れない。ディカプリオが最初の妻と喧嘩して別れるところの引きのショットの、スクリーン一面に滲む暗い黄金色の光だとか、ときどきはっとするような美しい瞬間があったりするのもよい(ヌいたのだろう)。
  • 帰宅してから、サンドウィッチを柚子にもう一枚作ってもらって食べる。
  • ところで、モーツァルトストラヴィンスキー、どっちかの才能をやると云われたら、断然、後者である。